「土と腸」三保製薬研究所物語(二〇)
── 親父に教えられたこと
○今日は会長のお父さん(杉山鋼太郎)の想い出をお聞きしたいと思います。お父さんは村のことを実によくなさったとお聞きしましたが。
●よくやったよ実に。やはりそういう血統を受けている。当時、農会の仕事にしてもそうだが、立場がどういうことであろうとも、そういう事には関せずに、どんどん公共の仕事の面倒を見た人だ。親父と一緒に山の仕事をする一服の時、区の話や村の話をするけれども、私的な話はない。やはり親父は考え方が大きかったんだと当時知ったよ。
親父は養子で出身は当時の小島村、但沼の平岡で、兄は喜多郎といった。小島村の名家だ。親父の兄、喜多郎は長い間村長をやり、村の政治をやった。そういう風貌に接して、いつの間にか覚えるものだ。だんだんに身に付いてくるものだ。
今でいう区長などは、区の責任者だが区長をやめればただの平の区民だ。しかし親父はそういう区別はつけなかった。いつも、区長であってもなくてもだ。区長のようなつもりで考えておった。それは別に給料をもらっているわけではない。何のためにその中に入って専心しているのか。何のためという理屈ではなく、いつの間にか専心している。そういう気持ちが尊い。自然だから。これからの人もそうあるべきだと思う。こういう人が増えれば、非常に世の中はうまくいくと思うよ。
さらに話を一歩進めてみると、何のグループ(部落や区など)でも、グループが活発に、グループらしい仕事をするのは、いつの時代にも必要だが、何のためにそれをやるかというと、ただうまくいっているだけではだめで、グループをよくしなければならない。よくするとはどういう意義があるか。それはグループの子孫、つまり後継者を作るという事だ。自分たちだけがかろうじて食っているというのではまずい。自分のよき後継者を作る。つくるというと語弊がある。自分以上の後継者を育てることをしきりに考えるべきだ。その考えで携わるべきだ。決して行き詰まるということはない。それが生活だから。
このような考えを誰から受け継いだかということを考えてみると、やはり杉山喜多郎村長と鋼太郎親父だ。したがって僕は非常に幸せな人間だと思っている。
(To be continued)
語り手 花澤政雄(三保製薬研究所 創業者) 1982年2月18日